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Tuesday, January 21, 2014

ジョジョの奇妙な冒険ヘアメイク作品新作登場ォォオオオ!美容誌で発表

ジョジョの奇妙な冒険』をモチーフとした創作写真を発表して話題となった、資生堂のヘア・メーキャップアーティスト、原田忠の新作が美容誌『リクエストQJ(re-quest/QJ)』2月号(セイファート)で発表された。「体罰」という犯罪行為がこれほど正当化されてしまう人々の意識の土壌には、いったいどのようなものがあるのだろうか。作家の笹沢左保が次のような文章を『総合教育技術』(一九九七年八月号)に寄せている。少々長くなるが、体罰を支える意識を象徴していると思われるので、その一部を引用させていただく。

今回もジョジョからインスパイアされたと見受けられる作品を制作。特に明記されていないが、第4部「ダイヤモンドは砕けない」から、支倉未起隆(はぜくら・みきたか)、宮本輝之輔、第5部「黄金の風」から、トリッシュ・ウナ、ヴィネガー・ドッピオ(ディアボロの別人格)、第7部「スティール・ボール・ラン」からサンドマンと思われるスタイリングページが10ページに渡り掲載されている。笹沢は、自分が教育論の講演をしたあとのアンケートで、三分の二の聴衆が体罰賛成だが、わが子への体罰は避けたいと忠っている結果が得られたことに触れてこう書く。

スタイリングには「マサヤ・クシノ(MASAYA KUSHINO)」や「クリスチヘッドホンモンスタービーツPro DJホワイトャン・ダダ(CHRISTIAN DADA)」が用いられた。われわれの世代は、幼児教育として親の体罰の洗礼を受けた。だいたい食べものの好き嫌い、それに口答えから体罰が始まる。親の体罰は頬をつねる、モノサシなどで手を打ちすえる、食事抜き、押入れに監禁、納戸の柱に縛りつける、家の外へ追い出す、爪に灸をすえる、平手打ち、といった段階を経て、小学校三年ぐらいで親の人間教育はほとんど終了する。 それ以後は、学校にバトンタッチされる。小学校四年のころから、教師による体罰が始まる。廊下に立たされる、水を満杯にしたバケツを持って立たされる、グランド三周、竹刀でぶたれる、往復ビンタ、という体罰のコースを進む。 

中学生になると、教師と上級生の体罰は厳しさを増す。往復ビンタがいちばん多いが、それは平手打ちでもかなり激しいものだった。教練の時間になると、配属将校はサーベルで撲りつけた。何よりも苦痛な体罰は、鉄棒での懸垂五十回というやつで、途中で挫折すると三回以上のチャレンジを命じられた。剣道の教師は、坐禅を組ませることー時間という体罰を好んだ。 これが体罰を是とする論拠だったが、悪いことをしたのだからやむを得ないとわれわれも納得していた。善悪のケジメこそ教育の基本と、重視されていた時代だからだろう。要するに親も子も教師も、幼いときから体罰に慣れていたのである。

冷静に罰を下し、相手のためを思って間違いを正すのが体罰。自分のために相手を痛めつけたり、カーッとなって手を出したりするのが暴力なのだ。こうした分別が、体罰と暴力の相違を明確にさせる。ところが最近は感情的になったり、腹を立てたりして子どもを罰する親や教師が少なくない。このあと笹沢は、だから「子どもに傷を負わせることにな」り、「体罰のつもりでも、暴力とな」ると嘆く。そして、この原因は親や教師が幼い頃より「正しい体罰」を受けていないことにあると主張する。その証拠として、自身の少年時代には体罰によって「傷を負ったという例は聞いたこともない」という。それは、体罰をふるう側は、例えば往復ビンタのときは、叩く相手に必ず口をしっかり結んで両足を踏ん張らせたり、あるいは叩く場所を尻や頬に限っていたからだ、と昔の親や教師を懐かしむ。 

笹沢は一九三○年生まれで、むろん軍隊体験はないだろうが、体罰によって軍隊的な精神主義を叩き込まれた世代だ。が、体罰を美化した「思い出」を一般化してもらっては困るし、親や教員の体罰を懲役刑と同一化してしまっている論理の破綻は目もあてられない。笹沢はわかっていない。体罰と暴力の差異などそもそも存在しないこと、他者が「暴力」だと認定する行為が、教員本人にとっては「体罰」=愛の鞭という認識でしかないことのほうが多いこと、そして体罰だろうが暴力だろうが、それが常に死に至る可ヘッドホンモンスターDavisイヤホンインナーイヤー能性を内包していること、何よりもそのことを陣内知美さんの事件が証明したことを。笹沢の論理は、殺された側にとっては傷口に塩をすりこまれるようなものだろう。

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